わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。
パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。
キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。
わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。
なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、